さかもと歯科クリニック 院長
~略歴~
平成17年 北海道大学歯学部卒業
平成17年 オレンジ歯科勤務
平成19年 琴似タワー歯科クリニック勤務
平成20年 アップル歯科副院長就任
平成21年 高砂歯科院長就任
平成27年 さかもと歯科クリニック開院
<幼少・小学校時代>
私は昭和54年1月9日、札幌市に坂本家の長男(3人兄弟です)として生まれました。
父が営む「あけぼの寿司」の長男として誕生し、親戚だけでなく、たくさんのお客さんにも可愛がってもらいました。
函館で育った父は函館や東京で修行し、東京の「あけぼの寿司」さんにのれんわけをしてもらって、自分のお店を持ったそうです。
そんなお店を母と一緒に繁盛させていました。
そのため、幼いときは同じ商店街のクリーニング屋さんに預けられていました。
面倒みてくれた店員さんの制服の色が青と緑だったので、「青おばさん、緑おばさん」と呼んでいたのを今でも覚えています。
小学生になってもよく遊びに行っていた記憶があります。
本当にお世話になったと思います。
少し育ってからは家から少し距離のある保育園、幼稚園に入園しました。
残念ながらそのときの思い出はほとんどありませんが、先生方が優しかったのは覚えています。あれから30年、お元気でいらっしゃるかお会いしてみたいですね。
遠方の幼稚園に通園していたため、近所にはあまり友達はいませんでした。
ですので、小学校は知らない子供たちしかいませんでした。
同じ幼稚園、同じ保育園。
周りは最初から友達がいる子ばかりだったかもしれませんが、「友達ができない」とかで悩むことはなかったです。
通知表には、「一本筋の通ったお子さんです」と書いてあったのを覚えています。
ごく普通の小学生でしたので、外で野球したり友達とたくさん遊びました。
サイクリングも好きでした。
小学5・6年生のとき、札幌市北区の自宅から中山峠を越え、豊浦町(洞爺湖の近くで、イチゴや豚肉で有名です。ボクシングの内藤選手の出身地でもあります)まで1人で行ったのは僕の大きな最初の成功体験です。「頑張ることで結果はあとからついてくる!」と、辛くても目標に向けて頑張ることの大切さを学んだ大きなきっかけになりました。
しかし、大きな挫折をしたのもこの時期でした。
何かの理由で地元の公立中学ではなく、私立中学受験をすることになりました。
それまでの通知表は「よい・ふつう・がんばろう」の「ふつう」ばかりでしたので、6年生の頃は塾に通っていました。
当時まだ塾に行く小学生は珍しく、周りは遊んでばかりでしたので羨ましかったのを覚えています。しかし行ってみると楽しいもので、勉強するのも苦痛ではなかったです。一緒に勉強する仲間、教えるのが上手な先生に恵まれたからでしょうね。
残念ながら受験には合格しませんでしたが、勉強してわかる楽しさを学んだのは良い経験だったと思います。
また、小学5年生から実家の寿司屋を手伝っていました。
洗い物したり、出前の電話を受けたり、できたお寿司をお客さんに運んだり、お茶をいれたりビールサーバーからビールいれたり(小学生なのに!)もしました。
この頃は手伝うのが嫌でしたが、今思えば貴重な体験でした。
「お客さんに言われる前に気付くこと(お茶ください、とか言われる前に気づく!)」
「笑顔で仕事すること」
「仕事は早く、きれいに、丁寧に!」
「どうやったら同じ仕事でも早く終わらせることができるか考えながら働く」
「親子であっても、仕事中は敬語を使うこと」
これらは社会に出てから全部必要であり、大事なことでもあり、当たり前のことです。
この頃から教えてくれた両親に今では感謝の気持ちでいっぱいです!
<中学校時代>
地元の公立中学に通い、卓球部に入りました。
2年生の頃にはレギュラーにもなり、大会に出場したりしました。
練習して上達し、試合に勝つととても嬉しかったです。
3年生になると、中体連では札幌市北区南部地区の個人戦で優勝することができました。
とても負けず嫌いの性格だったので、いっぱい練習した成果ですね。
この頃から将来はお医者さんになりたいな、と思い始めました。
病気で苦しんでいる人を助けることができるなんて、なんて素晴らしいのだろう!
「救急病棟24時!」みたないテレビ番組を見てそう思ったのがきっかけだったと思います。
地元の札幌北高校に進学し、北海道大学医学部に入る。
そんな淡い青写真を胸に、数学の「合同と相似」が全くわからなかった僕は再度塾に通うようになりました。
中学3年生のときの三者面談で、担任の先生に「北高に行きたい」と言っていたのを覚えています。しかし内申点がギリギリだったため、担任の先生は受験させようかかなり悩んでらっしゃいました。しかし「最後は本人の意思で・・・」ということで、北高を受験することに決まりました。
ですが、その後に行われた学力テストA・B・Cがどれも振るわず、かなり焦ったのを覚えています。
「このままでは落ちてしまう!」
そう思った僕は、受験前10日ほどは睡眠時間以外ずっと勉強していました。
最後の追い込みが功を奏したのか、受験当日は何とか大丈夫かなと思えました。
解けない問題も諦めず考えていたら、終了時間1分前に答えが閃き、必死に書いたのを今でも鮮明に覚えています。
「合格」という目標に向け一生懸命努力し、最後まで諦めないことの大切さを実感した瞬間でした。
<高校時代>
無事札幌北高校に入学した僕は、引き続き卓球部に入りました。
勉強はあまりせず、部活ばかりやっていました。
お小遣いもほとんどが部活で使うものに充ててました。
とても充実した高校生活でした。
3年生になると私立の強豪校の選手にも勝つようになり、最後の高体連では北高史上初の団体戦全道大会出場(札幌3位)を果たしました。
団体戦ではダブルエースとして最後の5番手に出場し、僕が勝ってチームの勝利が決まり、3位になった瞬間は今でも鮮明に覚えています。
地道な練習を頑張って続けた結果だと思います。
このように部活ばっかりやっていたので、本業の学業は中の下くらいでした。
そのため北大医学部に受験したものの不合格でした。
<予備校時代>
親と相談し、浪人することにしました。
医学部に行きたい!
この頃は自分の意思でそう思っていました。
家にいては家族の生活が気になって勉強に集中できないだろうと、勉強できる環境をつくるため予備校の近くの下宿に入りました。
北海道内各地から集まった同じ年頃の男11人と同じ屋根の下で下宿生活がスタート。
数日が過ぎると全員仲良くなり、下宿内に活気が生まれました。
その活気はどこに向かったでしょうか。
勉強ではありませんでした(^_^;)
違う下宿の人たちとサッカーやったり、夜中までゲームしたり騒いだり。
「自由って楽しい!!」
変に勘違いして、1年を棒に振ってしまいました。
当然のことですが、再び北大医学部は不合格。
浪人生活2年目に突入です。
さすがに反省した僕は、この年は本気で勉強しました。
北大はダメでも、他の医学部では合格できそうなところが見えてきました。
3回目のセンター試験を受けましたが、夢散りました。
どうしても文系科目(国語と社会)が苦手で、医学部のボーダーラインを割りました。
浪人は今年まで!
親との約束のため、医学部受験は諦めることにしました。
医療系には進みたかったので、いろいろ悩んで北大歯学部を受験することにしました。
試験を受けた後の手応えは全くありませんでした。
医療の道はいったん諦め、後期日程は100%合格するところを受験する予定でした。
そんな中、合格発表の日がやってきました。
「どうせ落ちてるだろうし」と発表も見に行かず、下宿先で勉強したところに通知が!
開けてみると、合格通知でした!
すっごく嬉しかったです!!
すぐに親に電話し、その手で赤本を捨てた記憶があります。
北海度大学歯学部に進学が決まった瞬間です(^o^)
<大学時代>
歯学部には入りましたが、お医者さんになる夢はやっぱり諦められませんでした。
とりあえず歯学部には入るけど、来年また医学部を受験しよう。
本気でそう思ってました。
そして新入生歓迎のオリエンテーション。
先輩たちが部活の勧誘に来ます。
大学に入ったら卓球部ではなく違うスポーツをやりたかったので、自己紹介のときに「バドミントンが好きです」と言ったため、バドミントン部に勧誘されました。
その日の練習を見学し、夜は飲み会がありました。
当時20歳だったのでお酒は飲めました。たくさん飲みました。
とても楽しかったです(^o^)
「やっぱり受験はやめて、このまま歯医者になろう!」
こうして、バドミントン部に入部することになり、歯医者への第一歩を歩みだしたのです。
その後はバドミントン一筋でした。
バドミントンは個人スポーツですが、団体戦もあります。
みんなで勝利に向かって頑張ることでチームの結束が深まること、目標に向かって頑張ることの大事さを学ぶことができました。
バドミントン以外では勉強もそこそこに、アルバイトばかりしていました。
学費は親が出してくれましたが、それ以外の生活費などは全てアルバイトと奨学金でやりくりしていました。
家庭教師、深夜のコンビニ、引っ越し、ライブ会場の解体、高校生クイズのスタッフ、お歳暮の倉庫仕分け、パン工場でのパン作り・・・。
いろいろ経験できたことは、よかったと思います。
DONQのパン工場で土日の早朝に働いていた頃は、「将来うちで働かないかい?」とお誘いをいただけるほど頑張って働いていました。
お金を稼ぐことの大変さ、お金の有難さなどはこの頃学んだと思います。
6年生になり、就活がはじまりました。
物覚えの悪い努力派の僕にあった医院さんに卒後は勤めさせてもらえることになりました。
<勤務医時代>
卒後すぐに務めた医院は、口腔外科出身の女医さんのところでした。
周囲に対する気配りなどたくさんのことを学び、口腔外科の知識も教えてもらいました。
その後は補綴(入れ歯や咬みわせ)を学びたく、違う医院さんに勤めました。
1年間ですが、本当によく勉強した1年でした。
院長先生も熱い方でした。常勤の先生にも大変お世話になりました。
最後にもう1つ勤務医をし、たくさんの経験を積ませてもらいました。
<そして高砂歯科院長就任>
2009年11月、高砂歯科の院長になりました。
ひとりでも多くの患者さんに貢献できる医院にしたい!
そう思って日々頑張ってきました。
1つでも何かできることはないかと、セミナーに参加したり全国の有名な歯医者さんに見学に行ったりして新しいこと、患者さんに喜ばれることを学んでくることを楽しみながら日々診療しておりました。
おかげさまで、たくさんの患者さんに来ていただくことができました。
「自分の行っていることが、たくさんの患者さんに貢献できている!」
そう喜ぶことができたのですが
「でも本当にこれが自分のしたかったことなのだろうか」
そう疑問に思うようになってきました。
とても恵まれた環境の中、最大限結果を出せるように努力しました。
当時一緒に働いてくれていたスタッフもとても頑張ってくれていました。
それでもやはり限界がありました。
患者さんがたくさん来てくれるのは嬉しいですが、一人一人に提供できる時間が減ってしまうことに悩みました。
「もっとひとりひとりにしっかりとした診療を提供したい!」
そう思い、開業することを決意しました。
<そして開業へ!>
ご挨拶のところにもありますように、江別市牧場町で開業することと致しました。
何かあればすぐ対応できる、地域の皆様が安心して生活できるような歯科医院として成長していけたらと思います。
今後ともよろしくお願い致します。